2022年12月28日
2016年4月9日。
父と一男さんと私は、あの家に到着しました。
リビングには母と周代さんが洗濯物を畳んでいて、姉夫婦の姿はそこにはありませんでした。
小さい時から自分の子供のように姉に愛情を注いでいた周代さんは、なんとか間を取り持とうと食事を作り、姉夫婦に声を掛け続けましたが、姉は母と周代さんをいっさい無視して2階の自室に閉じ籠り、姉の夫もそれに合わせて弁当を仕事帰りに買い込んで姿を現さないという話でした。
しばらくすると、姉夫婦がリビングに降りてきました。
父の手術の日から1年半。
父の表情から怒りは消え、小さい子を諭すように姉に声をかけました。
「ゆき?お前が謝りたいっていうから来たんだよ。」
姉は待っていましたとばかりに両膝を床につき、小さな声で「すみませんでした」と呟き頭を下げ、スッと立ち上がりました。
今思えばこのわずか2〜3秒の出来事が、父に対する姉の免罪符となり、その後二度と謝罪を口にするどころか、父を取り込み、母の土地を乗っ取る分岐点となってしまったように思います。
謝罪を口にした後の姉は、まるで何かの演説のように、いかに母に手がかかるか、いかにわがままで横暴な老人かを熱心に語り始めました。
謝罪とは名ばかりの、中身はただひたすらに自分の行いは他人のせいによるものである、父の件も、母の件も、私に対する嫌がらせも、全てが人のせいだと言い訳に終始する姉。
母が嘘だと反論しようとすると、姉の夫の「お婆さんの知らないわからない関係ないは聞きたくないんで。」という合いの手が入り、まるで何度も練習した演劇を見ているような、時に感情を込め、時には身振り手振りを交え、わたしたちを圧倒したのでした。
父は何も語らず、ただじっとそこに座っていました。
一男叔父さんも周代叔母さんも、自分達の知らない母の暮らしの不満をぶつけられ、何かがおかしいとは思うものの反論する余地が少しもありません。
姉の大演説を聞きながら、私は必死に自分の頭の中の記憶と照らし合わせ、姉の嘘と作り話を指摘し、その都度話をすり替えられ、姉と私の一対一の攻防戦が繰り広げられました。
私に対し業を煮やした姉の夫は
「お前さっきからなんなんだよ!さっきからニヤついた顔して話してんじゃねぇよ!黙ってろ!」と怒鳴りつける場面もありました。
暴力的に大声で怒鳴りつけられ、あまりの驚きと衝撃に言葉が出なくなってしまった私を見兼ね、
さすがに父が「お前の方こそ調子に乗るんじゃないよ!」と声を荒げてくれましたが、あんなに私に嫌な思いはさせないと言っていた父が、姉の言うことを何も言わず聞いていることに、半ば怒りさえ感じていました。
姉の夫への強烈な怒りと父に対する不満と、うまく喋れないもどかしい気持ちが爆発し、私はワンワンと声を出して泣き出す始末でした。
4時間の話し合いは一旦中断し、私は録音したままのスマホをそのままに席を外しました。
夜も遅くなり、一男叔父と周代伯母は母と一緒に2〜3日泊まっていってくれると言うことでしたが、私は興奮冷めやらぬまま東京へ帰るというと、父は姉の夫に晩酌に誘われていましたが
「ひかるを1人で東京に帰すのはかわいそうだから。」
と私と一緒に帰ることを決めました。
姉夫婦から受けたひどい仕打ちに苦しみながら孤独の中で病と戦い、私に対する嫌がらせの数々と別れた妻への暴力を知り、父の怒りはいかばかりかと思っていたのに、この一言を聞いた私は拭いきれない違和感を感じました。
この時父は、少なからず母や私に同情しながらも、すでに一方では寂しく苦しい孤独な毎日から抜け出したい、自分が建てた立派なこの家で、晩酌に付き合ってくれる娘夫婦と孫との暮らしを夢見て揺れていたのではないかと、今は思っています。