2022年9月9日
父の退院から1ヶ月が経過しました。
介護保険を利用して、平日昼間のヘルパーさんの手配と週に2回のデイサービスへ申し込み、私は復職に向けて準備を始めました。
家に戻り、毎週日曜日には電車とバスをのりつぎ1時間少しの父の自宅へ通いました。
手術をしてくださった病院のご配慮で、定期的な検査と検診は手術した病院へ通い、1年間の抗がん剤治療は自宅近くの病院ですることになりました。
父は初め、抗がん剤治療は行わないと決めていましたが、病院の先生の説得で開始することになりました。
抗がん剤が始まり、本人が恐れていたように食が進まず痩せていき、髪も薄くなっていきました。
シングルだったことが自慢のゴルフは、仲間とコースに出ることを目標に頑張っていましたが、自分の体力にショックを受け、行かなくなってしまいました。
好きだったお酒もタバコもやめていましたが、次第に隠れてお酒やタバコを始めるようになりました。
ようやく冬を乗り越えたものの、春先のまだ寒い頃には体調を崩し、東京の大学病院を探して受診すると、軽い肺炎を起こしていました。
「俺はもうダメかもな。」
大学病院の受診の帰りに父が呟きました。
以前の生きる力がみなぎった父は影をひそめ、まだ70歳を少し過ぎたばかりだというのに、ずいぶん小さく感じました。
私は夕暮れ前の富士山を父に見せようと、そのまま河口湖まで車を走らせました。
「富士山を見てがんが治った人がいるんだってよ。」
以前誰かに聞いたこの話を思い出し、どうか父からいろいろな痛みを取り払ってほしいと願うのでした。
脳梗塞の後遺症も、腰痛の術後のふらつきも、胃がんの手術の痛みも全部富士山が治してくたらいいのに…
抗がん剤は1年続けることができず、途中でやめることになりました。
お酒もタバコも、父の体の状態には良くないことではありましたが、私は強くやめさせることができませんでした。
何をしてもあの出来事を忘れることはできないし、誰がきても寂しさが埋まることはない。
それは私が一番理解していることでした。
「オレが死んだらたける(私の夫)と二人で見送ってくれればいいから。」
「遺言書は書いて金庫に入れてあるし生命保険の受取人も全部ひかるにしておいた。」
体の痛みは良くなっても、心の痛みはなかなか良くなることはないようでした。
それでも抗がん剤をやめて戻った味覚のおかげで、毎週日曜日にはなにか美味しいものを食べるということが父と私の楽しみとなりました。
デパートで美味しそうなカツオやマグロを買っていったり、ときにはフジコさんとうなぎをたべにいったり、そんな暮らしのくりかえしでなんとか1年半が経ちました。
姉夫婦からの連絡は1度もなく、父の一人暮らしにも限界を感じていた私は、夫に相談しそろそろ父との同居を考え始めたそんな矢先の出来事でした。